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Tuesday, October 6, 2009

織田信秀の失敗 - 「センゴク外伝桶狭間戦記」by 宮崎英樹から


先週の木・金曜日に電撃とんぼ返り帰国をした際、第2巻を買って参りました。う〜む...第1巻で抱いた期待を裏切らない展開です。(しかしこの作者...手を描くのが下手だね。)

第1巻では家督を継いだ新進気鋭の今川義元が戦国大名として大成していく様を描き、第2巻では農業ではなく商業に経済基盤をおいた新しいタイプの戦国大名、織田信秀の擡頭と、そんな父の姿を斜から眺めつつ成長していく織田信長を描いています。

これって...かなり魅せる映画になれそうな気がする。

第2巻を読んでいて気がついたのだが、なんで信秀は三河地方を巡る対今川の東部戦線が膠着した時、両面作戦となる美濃における対斎藤北部戦線の火ぶたを切ったのか。マンガでも描かれているが、斎藤道三に追い出された美濃守護土岐氏を担いで侵攻するのだが、これはさんざんな結果となる。

渥美半島を今川に抑えられてから、伊勢湾流通に支障をきたしたことから方向転換を余儀なくされたのか。それとも尾張国内の不満分子を抑える為に、戦勝が必要だったのか。

年表をみてみると...

1532(1538?)年:信秀、那古屋城を奪取。それまでの本拠地であった現在の愛知県西部にある勝幡城から移り、東部への勢力拡大を図り始める。

1535年:松平清康(家康の祖父)、守山崩れで不慮の死。三河地方が不安定となる。

1539年:古渡城(名古屋市中区)を築城。

1540年:三河の安祥城(愛知県安城市安城町)を攻略。松平広忠(家康の父)は今川家の後援をたより、ここに織田・今川による三河を舞台とした直接の勢力争いが始まる。

1542年:第一次小豆坂の戦いにおいて今川家に勝利。西三河の勢力を確立する。

1544年:松平広忠の義兄、水野信元が織田側に着く。動揺した広忠は今川家との結びつきをより堅固にするため、実子(水野信元にとっては甥)の竹千代(家康)を今川家に人質として差し出そうとするが、渥美半島の要衝、田原城城主であり岳父でもある戸田康光の裏切りにより竹千代を織田側に奪われてしまう。

1547年:斎藤道三によって追放された美濃国主、土岐頼芸を担ぎ美濃に侵攻。一時は大垣城を奪うまでくい込んだが、道三の居城・稲葉山城を攻撃したところ、道三の反撃を受けて敗れた(加納口の戦い)。

1548年:犬山城主、織田信清(弟信康の子で信秀の甥)と楽田城主織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させる。末森城(名古屋市千種区)を築城。第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、西三河における勢力が衰える。

1549年:3月、信長と斎藤道三の娘・濃姫が政略結婚。織田家、斎藤家の和睦。ほぼ同じ頃に松平広忠が怪死。11月、今川家の軍師、太原雪斎が率いる今川軍が安祥城を急襲し攻略。織田家は三河における足がかりを失う。

1551年:3月、信秀、末森城にて急死。

やっぱり竹千代を奪取した1544年あたりがピークで、ここら辺で待ちゲームに徹することができずに美濃にちょっかい出したのが失敗の遠因だな。国外に攻めだすのではなく、ここらあたりで(後に信長がやったように)国内における織田家家中の勢力のねじれ構造を粛正によって正しておくべきだったのだろう。おかげで吉法師クンはその出だしでエライ苦労をさせられたわけだ。

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