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Tuesday, December 29, 2009

細川三斎忠興の信長後胤説

この時、細川忠興は与一郎と名のってわずかに十五歳であったが、弟の頓五郎興元十五歳とともに一番乗りをしたので、信長は聞いて激賞したという。余談だが、この兄弟は同母から同年に生まれたことになっているが、双生児なわけではない。なにか出生に秘密があるのである。熊本では、忠興は実は信長の子であるという説が昔からある。」海音寺潮五郎「悪人列伝」松永久秀より

なんか海音寺先生、重大な事をサラっといっておりますが、これ本当なのでしょうか。

ウィキペディアを見ると、

細川忠興:永禄6年(1563年)11月13日、将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。

細川興元:永禄9年(1566年)、細川藤孝(幽斎)の次男として生まれる。

と書いてあるので、同年生まれではないという説もあるようですが、「ウィキペディア」はあくまでも「ウィキペディア」でして、海音寺先生も根拠のないことを言うはずはないと思うのです。

しかし、もし細川忠興が信長の子だとすると、非常におもしろい歴史的想像がいろいろと可能になります。

忠興クンのパパ、細川幽斎こと藤孝さんも、通説では足利家に血統が連なる奉公衆三淵晴員の次男で、晴員の兄の和泉守護細川元常の養子となったとされていますが、室町幕府十二代将軍足利義晴の落胤説もあり、なかなか複雑な家庭事情があるようです。また藤孝さんが家督を継いだとされている「細川家」も、和泉守護家の細川家ではなく、淡路守護の細川家や、近江守護佐々木氏の一門の細川家ではなかったかと諸説あり、よくわかりません。

まぁ室町末期の京都の諸事情は混乱を極めていたようです。

室町幕府十三代将軍、足利義輝が三好三人衆と三好家の家宰松永久秀に御所を襲われ、自ら白刃を手にとり奮戦しつつも惨殺された「永禄の変」が永禄8年(1565年)6月。大和国片岡城攻めの時の忠興クンがかぞえ十五歳であれば、このときの忠興クンはまだ二歳前後のオシメもまだ取れない赤ん坊という事になります。パパの藤孝さんは、この主家足利将軍家危急の時に際して、将軍義輝の弟、一乗院覚慶(後の十五代将軍足利義昭)を救出するべく、京・畿内に充満する三好/松永勢をかわしつつ奔走するわけですから、なかなかスリリングな環境に育った事になります。

もしこれが信長の庶出の子として織田家で育ったのであれば、パパ信長は永禄10年(1567年)の美濃攻略完成に向けてバリバリ全開中。

藤孝さんと信長が会ったのは、覚慶アラタメ義昭が信長を頼って岐阜にやって来た永禄11年(1568年)7月以降、もしくはその準備交渉中。忠興クンは多分五歳ぐらい。しかしたとえ信長でもこの時点において、自分のフトコロに飛び込んで来た「奇貨」である義昭の股肱の臣である藤孝に向かって、

「オイ、俺のガキをてめぇのセガレとしろ...」

とは言いだしませんでしょう。腐っても鯛。相手は足利将軍家の直参。自分は美濃・尾張二国の大守とはいえ、家柄を問えば管領斯波家の陪臣。つまり将軍家から見れば陪々臣なんですから。

じゃぁもし信長と藤孝パパの間に養子縁組の可能性があったとしたら、やはりそれは信長と義昭の対立が表面化した元亀4年/天正元年(1573年)3月でしょう。義昭の要請に応える形で上洛の途についていた武田勢が信玄の死により帰国。窮地を脱した信長は時を移さず畿内、主に京の二条城、宇治の槇島城を拠点としていた義昭の勢力を排撃すべく上京します。この際、それまで義昭の臣下でありながら、信長軍の一翼を担い、二足のワラジを履いていた藤孝パパは、信長を出迎え恭順の意を示します。この時、藤孝パパの実兄、三淵藤英は義昭側についているのですから、三淵/細川家としてはかなり微妙な立場にいたわけです。信長は7月には義昭の勢を打ち破り、義昭は毛利を頼って逃亡。足利幕府はここにその歴史を閉じる事になり、信長は朝廷に奏上して年号を「天正」と改めさせるのです。

もし忠興クンが織田家から細川家に養子入りしたとすると、多分このタイミングが一番ありそうな時期です。忠興クンは10歳前後。御家の一大事に当たって、藤孝パパが恭順の姿勢を示すために、信長の子を養子として受け入れ、これを嫡子とする...という筋書きならありえます。後年、秀吉も信長の実子(後の秀勝)を養子にして、信長の気に入るようにしていますので、藤孝パパはその前例を作った存在だったのかも知れません。(もちろん忠興=信長実子が本当であればの話ですが。)

もしこういう背景があったとすると、その後の細川家の行動がまたひとつちがってみえてきます。

天正6年(1578年)には信長の命で忠興クンと明智光秀の娘、お玉(後のガラシャ)との婚姻がなります。そして細川家は明智光秀の与力大名という立場になるのですが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際して細川家は光秀に与して行動を共にすることを拒否します。これは藤孝アラタメ頭を丸めた幽斎パパの先見の明ということになっていますが、もし忠興が信長の子であったとすると、当然の身の処し方かもしれません。忠興クンもこのタイミングで頭を丸め、三斎と名のったこともなかなか意味深長になります。

そしてこれはあまり傍証として説得力のある話ではありませんが、忠興クンがお玉ガラシャに対して抱いていた強烈なまでの独占欲と嫉妬心は、なんとなく信長の狂的側面を思わせます。

またこれも傍証としては弱いのですが、忠興クンの娘、「こほ」は細川家重臣長岡興長の妻となるのですが、女中の一人が宿下がり中に亭主の興長と逢い引きしていたことを、女中の身体についていた香の残り香からそれこそ「嗅ぎ分け」、女中を吊るし上げた上に真っ赤な火箸でその身体を突き刺して死に追いやったという、壮絶な折檻を加えています。これも信長の狂気の遺伝でしょうか?

うがった見方が過ぎるかな...。

安土城にみえる信長の美的センスや茶の湯の趣味も、茶道三斎流の創始者としての忠興にその遺風を残しているのかもしれません。










細川幽斎の五男、細川蓮丸クン。天正15年(1587)7月8日におそらく12歳で病死したとされている。「辻ヶ花染」とみられる小袖、なかなか斬新なデザインですな。オシャレな家風を反映しているのでしょうか。

Monday, December 28, 2009

「高橋教官に敬礼っ!」 - クリスマス休みの読書

嵐寛寿郎って飛行士免許持ってたのか...スゴイ...尊敬しちゃう。

「『コンチワおおきに、おおきに』、こっちゃも敬礼。これがサマになりまへん、腰をかがめてまねきネコや、はいな淀川長治先生です、にぎにぎしてますねん。」



快男児というところでしょうか。なんと森光子のいとこでもあったのか...へ〜...。

Sunday, December 6, 2009

Sweet!

韓国系オーストラリア人のジャニスちゃんとソニアちゃん。歌もお上手。



でも、なんとなくreligiousなのね...。

Saturday, November 28, 2009

マジかよ、ヒガシぃ〜!

東山&佳乃が真剣交際!舞台共演がきっかけ


この下手な変装をした東山選手の、やたらキレのいいダンスをセガレが家でマネしています。

Sunday, November 22, 2009

似たもの同士な親子

コーチをしているミニ・ラグビーのトーナメントがあった。日曜の午前に4試合。最後の試合の前、セガレに、

「次の試合、キャプテンやりたい?」

ときいたら、

「いろいろ人にアレやれコレやれ言うのはメンドウだから、いやだ。」

とのご託宣。

オマエ、本当にオレに似てるなぁ...。

(写真は試合場にプロモに来ていた消防所のおじさんに着せてもらって撮った。)

Wednesday, November 18, 2009

ザッツ・ホンコン!

このユーモアのセンスといい、男性の横わけヘアスタイルといい(CKBの「♬横わけハンサム・ボーイ!」そのまんま...)、これぞ「ホンコン!」ですな...いい意味でも悪い意味でも。

Tuesday, November 10, 2009

なぜか涙が止まらない

チッキショー...悲しくってしょうがねぇや...

Sunday, November 8, 2009

翼よ、あれが...

日本出張より昨晩帰国。今回もANA利用。ただし深夜/早朝発着の羽田便ではなく、不便だけど安い成田便。

日のあるうちに飛ぶ香港ー日本便の楽しみは、空から見える景色だ。だから必ず窓側、それも機体の左側/ポートサイドの席を予約する。

香港を飛び立ってしばらくしてくると、まずは台湾の上空を通過する。その後、沖縄から鹿児島に連なる南西諸島の小島を一つ二つ数えるうちに、天候にさえ恵まれれば錦江湾と噴煙をたなびかせる桜島が視界に入ってくる。

以前も機内から撮った写真を、もう一つのブログにアップしたが(コチラ)、この風景を見るたびに、目頭が熱くなる。

これと同じ風景が、祖国のためにと、南の空へ飛び立って戻ってこなかった人々が、最後に見た日本の風景だったのだ。

桜島に翼を振って別れを告げた彼らに思いを馳せ、同時にまた今度も無事に日本に帰ってこれた自分の幸運を感謝する。

飛行機はその後、日向灘に抜け、紀伊半島の南を通過し、遠州灘から相模湾を横切り、房総半島ぞいに成田を目指して北上する。

今回はこちらも天候に恵まれて、冠雪の富士山の頂上が雲海の上にそびえ立つのが見えた。

思わず手を合わせたくなる。

興奮して、隣に座っていたアメリカ人のオッサンを突っついて、

「ホラ、ホラ...ジェームズ・ボンドなんか見てないで...外見てごらん...あれが富士山。キレイだろう...」

などなど...エッヘン、プイ!...っとばかりお国自慢をしたのだが、オッサンはチラとみて、気の抜けた「オーケー...」といったきり、また映画に戻ってしまった。

なんじゃお前...ケンカうってるのか?

ま、とにかく...あいも変わらず香港とは対称的に不便な成田のテイタラクに幻滅する前に、「あぁ...日本人で良かったなぁ...」と思える、空から見た日本の風景なのです。

Sunday, November 1, 2009

「好きな芸能人はだれですか?」

先月、当地の日本人学校中等部で、「社会人から話を聞く」というような企画の一環として、生徒さんたちと「お話し」してきたのですが、おとといの金曜日、先生たちが当日参加した講演者の面々を迎えて、わざわざお礼の会を開いて下さった。

初めの方は教育論...的なまじめな話をしていたのが、お酒と話が進むうちに、話題もくだけてけてきて、「好きな芸能人はだれですか?」という質問が座を一巡。

若い女先生曰く、「速水モコミチ」...だれそれ?(なんか「万葉集」みたいな名前だな...あ、あれは「ミコモチ」か...名のらさね〜、名のらさね〜)

私の番になって、とっさに気の利いた「名前」を思いつかず、

「留学中...外国人ばかりに囲まれて生活していたところ...テレビで日本映画特集をやっていて...そこで目にしたこの人が未だに忘れられません...私にとっては日本美人の代表です...」


岩下志麻さん...。

御前様も中井貴一パパも...ハズせませんな...。

しかしまたズレたことを口にしてしまった...。

Monday, October 26, 2009

中村主水...フロリダに出現?

史上最大のネズミ講事件で服役中のバーニー・マドフの友人であり、被害者原告団によって、一連の詐欺事件でマドフ以外では一番の恩恵を受けたと名指しされたピコワー氏が、フロリダ州の自宅のプールから死体で発見された...(ロイターの記事はコチラ



ついに...でたな...

Sunday, October 25, 2009

森繁久彌の「ゴンドラの唄」

この登場の仕方、間の取り方、節回し...何からナニまで勉強になります。


「爆笑」ではなく、「クスクス」笑いを狙い、かつ心に沁みわたる...天才ですね。

Saturday, October 24, 2009

レイ! - Marsalis and Willie play Ray Charles

観てみてぇよぉ〜!!!

Monday, October 12, 2009

左近の桜、右近の橘

平清盛に続き、「平治物語」の隠れた主役といえば、清盛のトイメンであった源義朝ではなく、義朝の長男、鎌倉悪源太義平でしょう。

15歳で坂東における源氏内輪の戦い(と思われる)武蔵大蔵の戦いで伯父の義賢を討ち殺し、平治の乱では数え19歳の若さで熊谷直実、三浦義澄等など後世までその名が轟く坂東猛者16騎を率いて、清盛の嫡男、重盛率いる平氏方500騎を蹴散らした(といわれる)、とんでもない快男児です。

平治の乱当日、平治元年(1159年)12月27日の義平の出で立ちは、

「練色(薄黄色)の魚綾(織物の名)の直垂に、八竜とて胸板に竜の金物を八つ打ちつけた源氏重代の鎧を着、高角の胄をかぶり、河内ノ有成が鍛えた石切という名刀を佩き(この太刀は後に後白河院の愛刀となった)、鷲の羽の矢を負い、重藤の弓を持ち、鹿毛なる馬に鏡鞍(前輪と後輪に金属を巻いて鏡のように磨き上げた鞍)をおいて
またがっているのであった。」(海音寺潮五郎「武将列伝」より「悪源太義平」)

とある。

対する平重盛は、

「この時、重盛は二十三、赤地錦の直垂に櫨匂いの鎧を着、竜がしらの兜をかぶり、平家重代の小烏丸の太刀を佩き、重藤の弓を持って黄桃花毛の馬に柳桜を青貝で摺った鞍をおかせてまたがり...」(同上)

とある。

この二人が「平治物語」では、「ベン・ハー」の戦車競争よろしく、左近の桜、右近の橘の間を七・八回追いかけ回すことになっているのですが...。

これを色彩で捉えようとすると...

う〜ん...難しいですね...

「練色」の着物とはこんな感じ。






矢に用いる鷲の羽とはこんなもの。












鹿毛の馬...









そして鏡鞍。












悪源太はこんな感じかな...







一方、重盛は...

「櫨匂い」、「櫨匂縅」の兜とは、こんな感じらしい。







「黄桃花毛の馬」というのはイメージしづらいですが、一応これが黄桃花。






重盛クンはこんな感じだろうか...







このkuler、いろいろ遊べるので、これも今度時間のあるときにもっといじってみよう。
(という私は先天性の色盲です。)

Kiyomoriでカラーコーディネート

Adobeのカラー・コーディネート・アプリ、kulerで先日の「清盛スタイル」をカラー・テーマ化してみた。

いかがなもんでしょう。

Friday, October 9, 2009

清盛スタイル

今度のスーツはこれを参考にして作ろうかなと思っている...

「紺の直垂に、黒糸縅の鎧、黒塗りの太刀、黒い羽ではいだ矢、塗籠藤の弓、黒い馬に黒鞍置かせて、上から下まで、何から何まで、黒ずくめの装束であったと平治物語に出ているが、これは事実であったようだ。愚管抄にも、『大将軍清盛は皆黒に装束きて、黒き馬にのりて』とある。なかなか凝ったお洒落である。」(海音寺潮五郎「武将列伝」より「悪源太義平」)

Tuesday, October 6, 2009

織田信秀の失敗 - 「センゴク外伝桶狭間戦記」by 宮崎英樹から


先週の木・金曜日に電撃とんぼ返り帰国をした際、第2巻を買って参りました。う〜む...第1巻で抱いた期待を裏切らない展開です。(しかしこの作者...手を描くのが下手だね。)

第1巻では家督を継いだ新進気鋭の今川義元が戦国大名として大成していく様を描き、第2巻では農業ではなく商業に経済基盤をおいた新しいタイプの戦国大名、織田信秀の擡頭と、そんな父の姿を斜から眺めつつ成長していく織田信長を描いています。

これって...かなり魅せる映画になれそうな気がする。

第2巻を読んでいて気がついたのだが、なんで信秀は三河地方を巡る対今川の東部戦線が膠着した時、両面作戦となる美濃における対斎藤北部戦線の火ぶたを切ったのか。マンガでも描かれているが、斎藤道三に追い出された美濃守護土岐氏を担いで侵攻するのだが、これはさんざんな結果となる。

渥美半島を今川に抑えられてから、伊勢湾流通に支障をきたしたことから方向転換を余儀なくされたのか。それとも尾張国内の不満分子を抑える為に、戦勝が必要だったのか。

年表をみてみると...

1532(1538?)年:信秀、那古屋城を奪取。それまでの本拠地であった現在の愛知県西部にある勝幡城から移り、東部への勢力拡大を図り始める。

1535年:松平清康(家康の祖父)、守山崩れで不慮の死。三河地方が不安定となる。

1539年:古渡城(名古屋市中区)を築城。

1540年:三河の安祥城(愛知県安城市安城町)を攻略。松平広忠(家康の父)は今川家の後援をたより、ここに織田・今川による三河を舞台とした直接の勢力争いが始まる。

1542年:第一次小豆坂の戦いにおいて今川家に勝利。西三河の勢力を確立する。

1544年:松平広忠の義兄、水野信元が織田側に着く。動揺した広忠は今川家との結びつきをより堅固にするため、実子(水野信元にとっては甥)の竹千代(家康)を今川家に人質として差し出そうとするが、渥美半島の要衝、田原城城主であり岳父でもある戸田康光の裏切りにより竹千代を織田側に奪われてしまう。

1547年:斎藤道三によって追放された美濃国主、土岐頼芸を担ぎ美濃に侵攻。一時は大垣城を奪うまでくい込んだが、道三の居城・稲葉山城を攻撃したところ、道三の反撃を受けて敗れた(加納口の戦い)。

1548年:犬山城主、織田信清(弟信康の子で信秀の甥)と楽田城主織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させる。末森城(名古屋市千種区)を築城。第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、西三河における勢力が衰える。

1549年:3月、信長と斎藤道三の娘・濃姫が政略結婚。織田家、斎藤家の和睦。ほぼ同じ頃に松平広忠が怪死。11月、今川家の軍師、太原雪斎が率いる今川軍が安祥城を急襲し攻略。織田家は三河における足がかりを失う。

1551年:3月、信秀、末森城にて急死。

やっぱり竹千代を奪取した1544年あたりがピークで、ここら辺で待ちゲームに徹することができずに美濃にちょっかい出したのが失敗の遠因だな。国外に攻めだすのではなく、ここらあたりで(後に信長がやったように)国内における織田家家中の勢力のねじれ構造を粛正によって正しておくべきだったのだろう。おかげで吉法師クンはその出だしでエライ苦労をさせられたわけだ。

Saturday, October 3, 2009

号泣!ブラジルのルラ・ダ・シルヴァ大統領


う〜ん...これはブラジル人だから絵になるんでしょうな。もし日本が勝ってた場合、これは鳩山さんが号泣し、感極まった石原さんが、鳩山さんを暖かく包容して額にキス...もしくはその逆...ってことか?観たくないな〜

Tuesday, September 29, 2009

レース鳩0777(アラシ)

そういえばこんなマンガもあったな...。

なぜか突然思い出してしまった。なぜだらう...。

思い出しついでにググってみたら、こんなサイトが...。長距離レースの生還率が1~2%というのは...エグイなぁ。


もしかしたら政界の「鳩」さんからの連想か?