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Monday, October 26, 2009

中村主水...フロリダに出現?

史上最大のネズミ講事件で服役中のバーニー・マドフの友人であり、被害者原告団によって、一連の詐欺事件でマドフ以外では一番の恩恵を受けたと名指しされたピコワー氏が、フロリダ州の自宅のプールから死体で発見された...(ロイターの記事はコチラ



ついに...でたな...

Sunday, October 25, 2009

森繁久彌の「ゴンドラの唄」

この登場の仕方、間の取り方、節回し...何からナニまで勉強になります。


「爆笑」ではなく、「クスクス」笑いを狙い、かつ心に沁みわたる...天才ですね。

Saturday, October 24, 2009

レイ! - Marsalis and Willie play Ray Charles

観てみてぇよぉ〜!!!

Monday, October 12, 2009

左近の桜、右近の橘

平清盛に続き、「平治物語」の隠れた主役といえば、清盛のトイメンであった源義朝ではなく、義朝の長男、鎌倉悪源太義平でしょう。

15歳で坂東における源氏内輪の戦い(と思われる)武蔵大蔵の戦いで伯父の義賢を討ち殺し、平治の乱では数え19歳の若さで熊谷直実、三浦義澄等など後世までその名が轟く坂東猛者16騎を率いて、清盛の嫡男、重盛率いる平氏方500騎を蹴散らした(といわれる)、とんでもない快男児です。

平治の乱当日、平治元年(1159年)12月27日の義平の出で立ちは、

「練色(薄黄色)の魚綾(織物の名)の直垂に、八竜とて胸板に竜の金物を八つ打ちつけた源氏重代の鎧を着、高角の胄をかぶり、河内ノ有成が鍛えた石切という名刀を佩き(この太刀は後に後白河院の愛刀となった)、鷲の羽の矢を負い、重藤の弓を持ち、鹿毛なる馬に鏡鞍(前輪と後輪に金属を巻いて鏡のように磨き上げた鞍)をおいて
またがっているのであった。」(海音寺潮五郎「武将列伝」より「悪源太義平」)

とある。

対する平重盛は、

「この時、重盛は二十三、赤地錦の直垂に櫨匂いの鎧を着、竜がしらの兜をかぶり、平家重代の小烏丸の太刀を佩き、重藤の弓を持って黄桃花毛の馬に柳桜を青貝で摺った鞍をおかせてまたがり...」(同上)

とある。

この二人が「平治物語」では、「ベン・ハー」の戦車競争よろしく、左近の桜、右近の橘の間を七・八回追いかけ回すことになっているのですが...。

これを色彩で捉えようとすると...

う〜ん...難しいですね...

「練色」の着物とはこんな感じ。






矢に用いる鷲の羽とはこんなもの。












鹿毛の馬...









そして鏡鞍。












悪源太はこんな感じかな...







一方、重盛は...

「櫨匂い」、「櫨匂縅」の兜とは、こんな感じらしい。







「黄桃花毛の馬」というのはイメージしづらいですが、一応これが黄桃花。






重盛クンはこんな感じだろうか...







このkuler、いろいろ遊べるので、これも今度時間のあるときにもっといじってみよう。
(という私は先天性の色盲です。)

Kiyomoriでカラーコーディネート

Adobeのカラー・コーディネート・アプリ、kulerで先日の「清盛スタイル」をカラー・テーマ化してみた。

いかがなもんでしょう。

Friday, October 9, 2009

清盛スタイル

今度のスーツはこれを参考にして作ろうかなと思っている...

「紺の直垂に、黒糸縅の鎧、黒塗りの太刀、黒い羽ではいだ矢、塗籠藤の弓、黒い馬に黒鞍置かせて、上から下まで、何から何まで、黒ずくめの装束であったと平治物語に出ているが、これは事実であったようだ。愚管抄にも、『大将軍清盛は皆黒に装束きて、黒き馬にのりて』とある。なかなか凝ったお洒落である。」(海音寺潮五郎「武将列伝」より「悪源太義平」)

Tuesday, October 6, 2009

織田信秀の失敗 - 「センゴク外伝桶狭間戦記」by 宮崎英樹から


先週の木・金曜日に電撃とんぼ返り帰国をした際、第2巻を買って参りました。う〜む...第1巻で抱いた期待を裏切らない展開です。(しかしこの作者...手を描くのが下手だね。)

第1巻では家督を継いだ新進気鋭の今川義元が戦国大名として大成していく様を描き、第2巻では農業ではなく商業に経済基盤をおいた新しいタイプの戦国大名、織田信秀の擡頭と、そんな父の姿を斜から眺めつつ成長していく織田信長を描いています。

これって...かなり魅せる映画になれそうな気がする。

第2巻を読んでいて気がついたのだが、なんで信秀は三河地方を巡る対今川の東部戦線が膠着した時、両面作戦となる美濃における対斎藤北部戦線の火ぶたを切ったのか。マンガでも描かれているが、斎藤道三に追い出された美濃守護土岐氏を担いで侵攻するのだが、これはさんざんな結果となる。

渥美半島を今川に抑えられてから、伊勢湾流通に支障をきたしたことから方向転換を余儀なくされたのか。それとも尾張国内の不満分子を抑える為に、戦勝が必要だったのか。

年表をみてみると...

1532(1538?)年:信秀、那古屋城を奪取。それまでの本拠地であった現在の愛知県西部にある勝幡城から移り、東部への勢力拡大を図り始める。

1535年:松平清康(家康の祖父)、守山崩れで不慮の死。三河地方が不安定となる。

1539年:古渡城(名古屋市中区)を築城。

1540年:三河の安祥城(愛知県安城市安城町)を攻略。松平広忠(家康の父)は今川家の後援をたより、ここに織田・今川による三河を舞台とした直接の勢力争いが始まる。

1542年:第一次小豆坂の戦いにおいて今川家に勝利。西三河の勢力を確立する。

1544年:松平広忠の義兄、水野信元が織田側に着く。動揺した広忠は今川家との結びつきをより堅固にするため、実子(水野信元にとっては甥)の竹千代(家康)を今川家に人質として差し出そうとするが、渥美半島の要衝、田原城城主であり岳父でもある戸田康光の裏切りにより竹千代を織田側に奪われてしまう。

1547年:斎藤道三によって追放された美濃国主、土岐頼芸を担ぎ美濃に侵攻。一時は大垣城を奪うまでくい込んだが、道三の居城・稲葉山城を攻撃したところ、道三の反撃を受けて敗れた(加納口の戦い)。

1548年:犬山城主、織田信清(弟信康の子で信秀の甥)と楽田城主織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させる。末森城(名古屋市千種区)を築城。第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、西三河における勢力が衰える。

1549年:3月、信長と斎藤道三の娘・濃姫が政略結婚。織田家、斎藤家の和睦。ほぼ同じ頃に松平広忠が怪死。11月、今川家の軍師、太原雪斎が率いる今川軍が安祥城を急襲し攻略。織田家は三河における足がかりを失う。

1551年:3月、信秀、末森城にて急死。

やっぱり竹千代を奪取した1544年あたりがピークで、ここら辺で待ちゲームに徹することができずに美濃にちょっかい出したのが失敗の遠因だな。国外に攻めだすのではなく、ここらあたりで(後に信長がやったように)国内における織田家家中の勢力のねじれ構造を粛正によって正しておくべきだったのだろう。おかげで吉法師クンはその出だしでエライ苦労をさせられたわけだ。

Saturday, October 3, 2009

号泣!ブラジルのルラ・ダ・シルヴァ大統領


う〜ん...これはブラジル人だから絵になるんでしょうな。もし日本が勝ってた場合、これは鳩山さんが号泣し、感極まった石原さんが、鳩山さんを暖かく包容して額にキス...もしくはその逆...ってことか?観たくないな〜