
なんか海音寺先生、重大な事をサラっといっておりますが、これ本当なのでしょうか。
ウィキペディアを見ると、
「細川忠興:永禄6年(1563年)11月13日、将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。」
「細川興元:永禄9年(1566年)、細川藤孝(幽斎)の次男として生まれる。」
と書いてあるので、同年生まれではないという説もあるようですが、「ウィキペディア」はあくまでも「ウィキペディア」でして、海音寺先生も根拠のないことを言うはずはないと思うのです。
しかし、もし細川忠興が信長の子だとすると、非常におもしろい歴史的想像がいろいろと可能になります。

まぁ室町末期の京都の諸事情は混乱を極めていたようです。
室町幕府十三代将軍、足利義輝が三好三人衆と三好家の家宰松永久秀に御所を襲われ、自ら白刃を手にとり奮戦しつつも惨殺された「永禄の変」が永禄8年(1565年)6月。大和国片岡城攻めの時の忠興クンがかぞえ十五歳であれば、このときの忠興クンはまだ二歳前後のオシメもまだ取れない赤ん坊という事になります。パパの藤孝さんは、この主家足利将軍家危急の時に際して、将軍義輝の弟、一乗院覚慶(後の十五代将軍足利義昭)を救出するべく、京・畿内に充満する三好/松永勢をかわしつつ奔走するわけですから、なかなかスリリングな環境に育った事になります。
もしこれが信長の庶出の子として織田家で育ったのであれば、パパ信長は永禄10年(1567年)の美濃攻略完成に向けてバリバリ全開中。
藤孝さんと信長が会ったのは、覚慶アラタメ義昭が信長を頼って岐阜にやって来た永禄11年(1568年)7月以降、もしくはその準備交渉中。忠興クンは多分五歳ぐらい。しかしたとえ信長でもこの時点において、自分のフトコロに飛び込んで来た「奇貨」である義昭の股肱の臣である藤孝に向かって、
「オイ、俺のガキをてめぇのセガレとしろ...」
とは言いだしませんでしょう。腐っても鯛。相手は足利将軍家の直参。自分は美濃・尾張二国の大守とはいえ、家柄を問えば管領斯波家の陪臣。つまり将軍家から見れば陪々臣なんですから。
じゃぁもし信長と藤孝パパの間に養子縁組の可能性があったとしたら、やはりそれは信長と義昭の対立が表面化した元亀4年/天正元年(1573年)3月でしょう。義昭の要請に応える形で上洛の途についていた武田勢が信玄の死により帰国。窮地を脱した信長は時を移さず畿内、主に京の二条城、宇治の槇島城を拠点としていた義昭の勢力を排撃すべく上京します。この際、それまで義昭の臣下でありながら、信長軍の一翼を担い、二足のワラジを履いていた藤孝パパは、信長を出迎え恭順の意を示します。この時、藤孝パパの実兄、三淵藤英は義昭側についているのですから、三淵/細川家としてはかなり微妙な立場にいたわけです。信長は7月には義昭の勢を打ち破り、義昭は毛利を頼って逃亡。足利幕府はここにその歴史を閉じる事になり、信長は朝廷に奏上して年号を「天正」と改めさせるのです。
もし忠興クンが織田家から細川家に養子入りしたとすると、多分このタイミングが一番ありそうな時期です。忠興クンは10歳前後。御家の一大事に当たって、藤孝パパが恭順の姿勢を示すために、信長の子を養子として受け入れ、これを嫡子とする...という筋書きならありえます。後年、秀吉も信長の実子(後の秀勝)を養子にして、信長の気に入るようにしていますので、藤孝パパはその前例を作った存在だったのかも知れません。(もちろん忠興=信長実子が本当であればの話ですが。)
もしこういう背景があったとすると、その後の細川家の行動がまたひとつちがってみえてきます。
天正6年(1578年)には信長の命で忠興クンと明智光秀の娘、お玉(後のガラシャ)との婚姻がなります。そして細川家は明智光秀の与力大名という立場になるのですが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際して細川家は光秀に与して行動を共にすることを拒否します。これは藤孝アラタメ頭を丸めた幽斎パパの先見の明ということになっていますが、もし忠興が信長の子であったとすると、当然の身の処し方かもしれません。忠興クンもこのタイミングで頭を丸め、三斎と名のったこともなかなか意味深長になります。
そしてこれはあまり傍証として説得力のある話ではありませんが、忠興クンがお玉ガラシャに対して抱いていた強烈なまでの独占欲と嫉妬心は、なんとなく信長の狂的側面を思わせます。
またこれも傍証としては弱いのですが、忠興クンの娘、「こほ」は細川家重臣長岡興長の妻となるのですが、女中の一人が宿下がり中に亭主の興長と逢い引きしていたことを、女中の身体についていた香の残り香からそれこそ「嗅ぎ分け」、女中を吊るし上げた上に真っ赤な火箸でその身体を突き刺して死に追いやったという、壮絶な折檻を加えています。これも信長の狂気の遺伝でしょうか?
室町幕府十三代将軍、足利義輝が三好三人衆と三好家の家宰松永久秀に御所を襲われ、自ら白刃を手にとり奮戦しつつも惨殺された「永禄の変」が永禄8年(1565年)6月。大和国片岡城攻めの時の忠興クンがかぞえ十五歳であれば、このときの忠興クンはまだ二歳前後のオシメもまだ取れない赤ん坊という事になります。パパの藤孝さんは、この主家足利将軍家危急の時に際して、将軍義輝の弟、一乗院覚慶(後の十五代将軍足利義昭)を救出するべく、京・畿内に充満する三好/松永勢をかわしつつ奔走するわけですから、なかなかスリリングな環境に育った事になります。
もしこれが信長の庶出の子として織田家で育ったのであれば、パパ信長は永禄10年(1567年)の美濃攻略完成に向けてバリバリ全開中。
藤孝さんと信長が会ったのは、覚慶アラタメ義昭が信長を頼って岐阜にやって来た永禄11年(1568年)7月以降、もしくはその準備交渉中。忠興クンは多分五歳ぐらい。しかしたとえ信長でもこの時点において、自分のフトコロに飛び込んで来た「奇貨」である義昭の股肱の臣である藤孝に向かって、
「オイ、俺のガキをてめぇのセガレとしろ...」
とは言いだしませんでしょう。腐っても鯛。相手は足利将軍家の直参。自分は美濃・尾張二国の大守とはいえ、家柄を問えば管領斯波家の陪臣。つまり将軍家から見れば陪々臣なんですから。
じゃぁもし信長と藤孝パパの間に養子縁組の可能性があったとしたら、やはりそれは信長と義昭の対立が表面化した元亀4年/天正元年(1573年)3月でしょう。義昭の要請に応える形で上洛の途についていた武田勢が信玄の死により帰国。窮地を脱した信長は時を移さず畿内、主に京の二条城、宇治の槇島城を拠点としていた義昭の勢力を排撃すべく上京します。この際、それまで義昭の臣下でありながら、信長軍の一翼を担い、二足のワラジを履いていた藤孝パパは、信長を出迎え恭順の意を示します。この時、藤孝パパの実兄、三淵藤英は義昭側についているのですから、三淵/細川家としてはかなり微妙な立場にいたわけです。信長は7月には義昭の勢を打ち破り、義昭は毛利を頼って逃亡。足利幕府はここにその歴史を閉じる事になり、信長は朝廷に奏上して年号を「天正」と改めさせるのです。
もし忠興クンが織田家から細川家に養子入りしたとすると、多分このタイミングが一番ありそうな時期です。忠興クンは10歳前後。御家の一大事に当たって、藤孝パパが恭順の姿勢を示すために、信長の子を養子として受け入れ、これを嫡子とする...という筋書きならありえます。後年、秀吉も信長の実子(後の秀勝)を養子にして、信長の気に入るようにしていますので、藤孝パパはその前例を作った存在だったのかも知れません。(もちろん忠興=信長実子が本当であればの話ですが。)
もしこういう背景があったとすると、その後の細川家の行動がまたひとつちがってみえてきます。
天正6年(1578年)には信長の命で忠興クンと明智光秀の娘、お玉(後のガラシャ)との婚姻がなります。そして細川家は明智光秀の与力大名という立場になるのですが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際して細川家は光秀に与して行動を共にすることを拒否します。これは藤孝アラタメ頭を丸めた幽斎パパの先見の明ということになっていますが、もし忠興が信長の子であったとすると、当然の身の処し方かもしれません。忠興クンもこのタイミングで頭を丸め、三斎と名のったこともなかなか意味深長になります。
そしてこれはあまり傍証として説得力のある話ではありませんが、忠興クンがお玉ガラシャに対して抱いていた強烈なまでの独占欲と嫉妬心は、なんとなく信長の狂的側面を思わせます。
またこれも傍証としては弱いのですが、忠興クンの娘、「こほ」は細川家重臣長岡興長の妻となるのですが、女中の一人が宿下がり中に亭主の興長と逢い引きしていたことを、女中の身体についていた香の残り香からそれこそ「嗅ぎ分け」、女中を吊るし上げた上に真っ赤な火箸でその身体を突き刺して死に追いやったという、壮絶な折檻を加えています。これも信長の狂気の遺伝でしょうか?